伝説のテクノロジー
松やにの煤が生み出す“黒の世界”
書道や水墨画などに使われる松煙墨。
その原料には、松やにを含んだ木片を燃やして出る煤が使われている。
そして今、その墨の技術がさまざまな形で応用されている。
墨運堂
国内の固形墨の95%が奈良墨
墨は今からおよそ2000年前、中国の漢時代につくり出されたといわれる。それが日本に伝わってきたのは1400年ほど前の飛鳥時代のことだ。日本の墨についての記録は「日本書紀」に出てくるものが最古だとされている。
その後、長い歴史の中では各地で墨がつくられた時期もあったが、やがて学問の中心として栄え、多くの社寺が集まる奈良が墨づくりの中心となっていった。さらに、鎌倉時代に良質の油煙墨が奈良で開発され、奈良墨のシェアが大きくなり、結果として墨職人の多くが奈良に集まった。今日では固形墨のおよそ95%が奈良でつくられているという。
ある程度の年齢以上の日本人なら、たいていは小学校の書道の授業で墨を磨った経験があるだろう。だが、その墨がどのようにしてつくられているかは知らない人も多いのではないか。
墨の原料は、煤(すす)と膠(にかわ)と香料、この3つだけである。香料は膠の臭いを消すために入れられるのだから、実質的には煤と膠だけでできているとも考えられる。
その煤は、松やにを多く含む赤松の木を燃やしたときに出るものと、植物油を燃やして出るものとに分けられる。前者を使った墨は松煙墨、後者は油煙墨と呼ばれる。現在は菜種油を燃やした煤からつくられる油煙墨が主流だが、文化2(1805)年創業以来、奈良の地で210年以上にわたり墨をつくり続けてきた墨運堂は今もなお、松煙墨もつくっている。「松煙は大小混ざった複雑な粒子で、なおかつ多少の不純物が混ざっています。それでつくる松煙墨は経年変化が大きく、黒みが強くなったり、青みが増していったりする墨もあります。正倉院にある昔の松煙墨で書かれた書を見ると、確かに青みがかった黒色をしていますが、あれは書かれてから1000年以上経って変化したといわれています。純粋で美しい墨色の油煙墨とは違い、複雑で深みのある墨色が、松煙墨に独特の味わいをもたらしているのです」
そう語るのは、墨運堂管理部部長の西川由喜雄さんだ。